意識をむけてみるといろんなものが見えてきますよね。お酒とオンガクが好きなサラリーマンが綴る、意識の向けどころページです。お仕事の息抜きや、お酒の肴にどうぞ。


by dasauso
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近所の住人の方々にはまことに申し訳ないのですが、クラリネットを久しぶりに出してきて吹いてみました。(後輩のUくんから借りっぱなしです。)


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↑ わざわざ撮ってもらう。


今日はちょっと真面目に呼吸からと、教科書を読むと、「鼻から息を10秒間吸って止めて...」と書いてあって、そのとおりやってみる。10秒吸うのんってたいへん。とりあえず、吹いてみよう。

でも、いざ吹いてみると、すぐに息が足りなくなる。音楽が続きません。


。。。。河川敷で弟とボールを蹴っていたら、通りがかりのおっちゃんにからまれて、「からだの隅々まで息をいれて、下腹部に力を入れるんや」、なぜか呼吸法を教わる。おっちゃんは、駅伝全国常連のR高校でも呼吸法を伝授してるんやと言ってた。なんか、うさんくさいな。。。。。


十数年前に出会った謎のおっちゃんのことを思い出しました。いっぱいいっぱい息を吸って、これ以上まだ吸えるか。うーん、そうか、まだこの辺にも入るな。おなかの横を広げて、背中も広げて、うーん、肩のへんにもまだ息が入るかな?腕のへんにも?

「おお、これなら続く。ていうか、これでないと音が出ないわ。」

確かに、音を出すのには効果てきめん。

なんてことで、モーツァルトのクラリネット協奏曲にトライしてみたり(トライは自由)、妻から「身体に障る」と苦情を受けてみたりして、しばらく思いつきの楽しみの時間を過ごしました。


そのあとが肝心なんですが、音出しついでに、歌をうたってみる。

おお、声が違うというか、なんか息の抜け方が違うではないか。あたまのてっぺんからなんか出るというか(ハタ坊?)。気がついたら、普段は出ない高いGisの音まで勢いで出ていました。FisやGもなんか楽~に出る。これは驚きです。

合唱でいままで四苦八苦していた高音ですが、自分の身体がなんかブレークスルーしたような感じです。なんか、逆上がりができるようになったときのような。


そんなわけで、お腹と背中と胸と肩?までめいっぱい息をためられるように(筋肉をコントロールしてできるように)、ちょっとずつトレーニング中です。

これができれば、もちょっとましな表現ができるはず。


フルート吹きの指導者が息のことを説明してくれはるんやけど、それがちょっとわかったかも。やっぱり体で覚えるのはちがうな。

しかしまぁ、このクラリネット、これを吹き続けられるブラスバンドの中学生はすごいよなぁ。ダテにロングトーン練習してない。


やっぱり基本が大事?




# オーパッキャマラード♪ というのは、フランス語のAu pas camaradeであるというのを知って、それはそれで衝撃です。

⇒せっかく最後まできたからyoutubeできいてみよう
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by dasauso | 2009-05-26 21:04 | オンガク編

梅雨入りどきのおすすめ

今日はイサキの塩焼きをいただきました。

イサキって淡白なイメージが強かったけど、思ってたよりずいぶんとおいしいんやね。


このイサキ、いよいよ旬を迎えるとのこと。そろそろ梅雨入り、そうするとなんだか気も滅入ってくるというもんですが、イサキを楽しみにすればいい。


この時期が最高!と思える楽しみが一つでも増えると気分もかわるもんですね。

次は刺身いってみよう。

皆さんはもう食べはりましたか?
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by dasauso | 2009-05-23 23:53 | オススメ編

もの言う演奏

目の前のアンヌ・ケフェレックのピアノを聴いていて「何が違うのかな」、と考えたのですが、それは、「何かを言おうとしている」、ということに落ち着くように思われました。

演奏のもつ説得力。

一般の(プロでない)人の演奏は、ただ楽譜をなぞって、楽譜の通り弾いている感じ。ときに、弾かされているとも感じられる。楽譜の通りに弾くこと、それ自体難しいのだけれども。いや、伝えようとしていて、それでも伝わっていないのかもしれないです。



何かもの言うときは、一つの音を出して、つぎに別の音、ということはなく、フィギュアスケートのようにもっと連続的なものであって、全体の構成の中に前後関係の流れと必然性、説得力があるのだと思います。

もう一つ、感じたのは、これも共通することなのだけれども、器楽曲とはいえ、言葉のついた歌をうたうように、弾くということ。言葉にはアクセントがあって、抑揚があって、歌うように弾くというのは、そういうことかなと。


自分は、歌う時にももっと言葉を大事にして歌わないといけないな、歌の説得力ってなにかな、といろいろ気づかされる機会でした。
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by dasauso | 2009-05-11 21:45 | オンガク編
「小曽根真のカデンツァによるジュノム」を楽しんだ、というよりも、「小曽根真編曲のジュノム」だったような。

そして今まで聴いてきたなかで「最も興奮した」演奏会でしたね。まさに、「熱狂の日」にふさわしい。小曽根版のジュノムでありました。


ラ・フォル・ジュルネ金沢2009。
ジャズピアニスト小曽根真による、モーツァルトのピアノ協奏曲K.271(通称「ジュノム」)、これは過去にも演奏されてきたものですが、今回はじめてそれを聴く機会を得ました。

もともと、小曽根真のガーシュインなどをきいてきて、その素晴らしさを堪能しつつ、モーツァルトはどんな風だろう、そして即興ソロの部分(カデンツァやアインガング)はどんな風になるのかな。ジャズの感じがどうなるのかなと、楽しみにしていました。

そして、その期待を大きく上回ることに。

1楽章が始まってしばらくは、「あ、いまここに装飾音符が入ったかな?」という程度だったのだが、「あれ、ここも」「おお、そう来るか!」と耳がだんだんと慣らされ、そしてカデンツァの箇所にやってくると、きました。音がだんだんと予期せぬ方向へすすんでいきます。フランスから来たオケ楽団員たち、コンマスをはじめ、みな驚きの眼を開いてピアノを見つめています。

2楽章カデンツァでは、短調のなかに青い月の光のような響きが印象的。近くの座席で寝息をたてて眠っているにいちゃんのスースーいう音が困ったものですが、これもまたコンサート。

そして、最終楽章では、何かから解き放たれたよう。ここまでくると、モーツァルトの余韻を残しながら次第にどのように逸脱していくのか、が楽しみに。アインガングでは、ドラえもんのタイムマシンにのって、異次元空間へと誘われているような感覚に。

あ、またここに戻ってきた。

そして、最後のカデンツァ。静かに泳いでいた魚が周りの水のありかをすいーっと確かめながら、やがて跳ねるように水中を駆け回ります。水を飛び出した先を心配するのですが、そこもまた泳ぎだす。戻ってきたところは懐かしい景色。

カデンツァを終わるんですが、ここで魚、もといピアノは先ほどとはちがって、リズムが解き放たれています。それにオケが真面目に呼応する。楽しいかけ合いです。

オーケストラ側もそれを楽しんでいるようでした。

曲を括ると、割れる拍手に喝采であったことは言うまでもありません。


小曽根さんは、ラ・フォル・ジュルネのガイドの中で、「モーツァルトの語法で即興をやっても本人の書いたものにはかなわない。違うチョイスをしてこそ僕らがやる意味があります」と言ってます。

なるほど、そうですね。そこにはジャズの強みという側面がありますね。一方で、このジュノムが持つジャズとの相性と言うか、ジャズのルーツと認めうるメロディやリズム感があるのかな、とも思います。

また、カデンツァのところばかり言及していますが、それ以外の「おとなしくしている」箇所の表現もすばらしく、それだけになお、説得力を感じた、ということも添えておかなければなりません。



カデンツァの奥行きときょうびのカデンツァについて

さて、「ジュノム」の場合、モーツァルトによるカデンツァ・アインガングが同じ箇所でも2種類ずつ、あるいは3種類ずつと数多く残されていて、そこからチョイスして弾かれることが多いわけですが、これは、モーツァルトが好んで演奏して、いろんな機会に演奏したんだろうと言われています。

けれども、さらに想像できるのは、現在残されている以外のパターンでも即興で弾いただろうということですね。その時の気分で弾いちゃったりするけれども、いちいち書き留めないから残らない。あるいは、消失したとか。残されている楽譜以上に、自由度があったんだろうな、と。

小曽根真のカデンツァを聴いてもう一つ思ったのは、即興ってなんだろう、どう演奏してどう感じるんだろうってことです。


モーツァルトの時代は、レコードやCDなどありませんで、音楽を聴く機会自体が珍しい体験で、特別な出来事だったんだろうと思います。それでも同じ曲を何回も聴いている人にとっては、「え?今日はそう来るか!」といった驚きとか、ハラハラ、ドキドキ感をもって、即興を聴いていたんだと思うんですね。パロディに対する好評なども、相当なものだったのではないか。

いまはCDやレコードなどの録音メディアを通じて音楽を楽しむ、つまり、その場にいなくても音楽を楽しめたり、音楽を持ち運んだり、何度も再生できたりしている。そうすると、自分の中の標準のあり方が、現代独特になってくる。そして、われわれが即興を楽しむときの感じ方も変わっていて、それゆえに即興に求められるものが変わっているのかもしれないですね。

さて、ジュノムのカデンツァですが、当時弾いていたモーツァルトのことですから、「あっ」と言わせるようなこともけっこう奔放にやったんではないか。そんな想像もします。そう思うと、この小曽根真のジャズテイストのカデンツァは、現代人にとって、ハラハラ、ドキドキするような即興という点では、昔と同じような側面を持つのかもしれないなぁ、などと思いました。


私的な勝手な想像ですが、そんな想像をしながら楽しむことができました。


モーツァルト ピアノ協奏曲第9番変ホ長調 K.271「ジュノム」
小曽根真:ピアノ
オーヴェルニュ室内管弦楽団 アリ・ヴァン・ベーク:指揮
(2009年5月1日 石川県立音楽堂コンサートホール)

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by dasauso | 2009-05-03 15:59 | オンガク編
公開レッスン、これは演奏家の解釈や考えを知ることができる貴重な機会ですね。必見です。しかも無料。


ラ・フォル・ジュルネ金沢 本公演一日前、プレイベント期間中の5/1、アンヌ・ケフェレックによるピアノの公開レッスンがありました。この公開レッスンでは、一通り、生徒さんの演奏があったあと、「ここはこんな風に」、「はい、やってみて」、と通訳さんを通じて指導。アーティストがどう考えてそのように表現しているのかを知ることができるので、本人の演奏を聴く時にもなるほど、そうか、と知ることができます。その場での聴きくらべにもなりますね。

通常の演奏の時は、「この箇所はどのようなことを考えて弾いていますよ」なんていうことは聴けなくて、わからないですよね。

ピアノ・ソナタK.333のレッスンを見たのですが、おなじ楽章中でもピアノソロを演じる部分、コンチェルトのオケを奏でる部分、オペラ的な部分があることを言っていました。たとえば、「この部分は、フィガロの結婚のスザンヌのようにね」(ケフェレックはフランス人)といった感じ。「最後は、シャンパンを開ける場面ように」とか。

やはり、楽譜に書かれていることが一通りその通り弾けるようになったあとは、どのように表現するか、というところが問われ、そしてその壁がまた高いんでしょうね。

ここからは、音の強弱や微妙な拍の長さなど、機械的なところからある程度フリーにならないといけない、といったことを言っていたように思います。

公開レッスンの翌日、今度は演奏会としてケフェレックのソナタを聴いて、その表現の説得力に圧倒されましたが、それはまた別の記事で。

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↑↑↑公開レッスンのある、地下交流ホールを1階の窓から覗きます。ただいまピアノの調律中。このあと、右側のピアノにケフェレック、左側に生徒さんが座ってのレッスンとなります。
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by dasauso | 2009-05-03 13:50 | オンガク編